2022年High School Play Festival(HPF/大阪高校演劇祭)にて、金蘭会高等学校 演劇部が「僕たちの好きだった革命」を上演した(7月29日、吹田市のメイシアターで所見、鴻上尚史作、杉江澄香・鶴岡朋花演出)。役者や音響、照明を含めた総勢30名で約2時間の上演を行う。新型コロナウイルス感染という脅威に迫られながら、大人数で作品を創り上げる。どれほど困難なプロセスを乗り越えた舞台だったのか、観客には計り知れないが、部員や現役学生を支えるOGの努力と、演劇をやりたいという熱意がひしひしと伝わってくる公演だった。
舞台は「拓明高校」。1969年の学園紛争で機動隊と乱闘中、意識不明に陥る山崎義孝(3年・濱本優月)。何十年も昏睡状態が続いたが、奇跡的に意識を取り戻した。目を覚ました山崎は、母校へ復学する。クラスメイトとなった小野未来(OG代役・岩野七葉)や日比野篤志(2年・平朱加)たちは、山崎の時代錯誤の言動に戸惑う。自分達とかけ離れた時代に、学生として生きた山崎のことを理解できず、様々な齟齬が起きるが、文化祭の企画を学校に却下されたことをきっかけに、革命を起こすため団結していく。
現役高校生が演じる強み
歴史的事実を取り上げつつ、コミカルに描かれる。特に、目を覚ました山崎とクラスメイトの会話が噛み合わない場面では、会場から笑いが起こっていた。女子高校生の「むかつく」という言葉を山崎は「胃のむかつき」だと勘違いし、胃薬を取り出すシーンが例として挙げられる。逆に、山崎が文化祭について他の学生の支持を得るため「アジビラ(政治的扇動を目的とした文や言葉を記載したもの)」を配ろうと提案すると、高校生たちは「鯵の開き」だと勘違いしてしまうシーンなどもある。ジェネレーションギャップのある会話で起こる笑いの中に、時代の流行や学生運動について巧みに盛り込んでいた。このシーンを現役高校生が演じることで、若い世代の反応が素直に伝わってくる。等身大の高校生が演じる強みだと感じた。
高校生たちはコミカルな場面に加えて、望んだ文化祭の開催に向けて奮闘する姿を熱演した。校門や校内放送、集会など工夫を凝らして、関心のない学生へ呼びかける。さらに、高校生たちの活動を注目したマスコミにも全力でアピール。シュプレヒコールが場内に響き渡る。大声を出し、身体を大きく使った動きで表現した。生き生きと呼びかけを行い、大人に負けじと熱意溢れる高校生たちが、演劇部の活動を全身全霊で楽しむ金蘭会の部員たちのように見えてくる。
等身大の部員たちで演じられる高校生が登場する一方、高校生の両親や教師たちなどの登場人物は、1960年代に学生だった世代として描かれる。しかし、演じるのは2000年以降に生まれた高校生。年齢や性別の垣根を越えて、演じなければならない。親しみのない言葉や学生運動という時代を理解して、大人たちの葛藤や諦めを繊細に演じて魅せた。1960年代を知らない現在の高校生が演じることで、学生の私はより身近な題材として感じられた。
現役高校生部員たちが演じることで、役であることを感じさせない自然体な高校生の姿、現在とはかけ離れた時代背景や、その時代を生きた大人の心情が受動的に伝わってくる。若い世代が観劇することの多い高校演劇祭で、「主体性に欠けている」という現在も抱える問題を扱った本作を上演する意義を感じた。
音楽と映像による効果的な演出
歌や映像でも表現を行うエンターテイメント性の高い舞台でもあった。
実際の1960年代 学生運動や戦場の様子を収めた映像が数回流れたことが印象的だった。この作品にとって象徴ともいえる学生運動を芝居で描き、さらに実際の映像を用いて生々しく表現した。当時を知らない世代に分かりやすく伝わり、また戦場の映像も加えたことで、昨今の現状と重なって見えてくる。暴力を振るい弾圧すること、武力で勝利を手にすることが横行する世の中であるが、言語や身体で表現するのだという強いメッセージとも感じられる演出だった。
作中、登場した音楽・歌も効果的に挿入されていた。役者全員が息をそろえて「私たちの望むものは(岡林信康作詞・作曲)」をアカペラで歌うオープニングでは、一気に作品へ引きこまれる。物語中盤にはラップが登場する。リズミカルで愉快なラップは物語内だけでなく、会場全体を大いに盛り上げた。1960年代ブームとなったフォークと高校生たちに人気高いラップが、どちらも歌い手の思想や感情をリズムにのせる近しい音楽だと山崎が認識する。昔も今も音楽には人の心を動かす力がある。その力を最大限に生かしたエンディングでは、再度「私たちの望むものは」を役者全員で歌い上げる。歌声にのせて、困難があろうとも懸命に演劇に向き合う熱い想いを観客へ届けた。
苦境に立ち向かう学生のエネルギー
新型コロナウイルス蔓延拡大の影響で、学校行事は思うように行えず、部活動は年々減少し、クラスメイトの素顔さえ知らない新入生もいる現状。人と人との関わりが減り、妥協することやそもそも信じようとしないことが増えたと感じる。そんな中、金蘭会高等学校演劇部は、コロナ禍に立ち向かい本作に挑戦した。その部員たちの姿と、望んだ文化祭が開催できるよう、教師に立ち向かう山崎や仲間となった高校生たちが重なる。学園側に文化祭の中止を強行されてしまい、挫折を味わった山崎を中心とした高校生たち。中止の発表で学内全体から中止の原因であるという冷たい視線を浴び、打ちのめされそうになる。しかし、山崎は決して諦めず、作戦を練り直している。なぜ、山崎は厳しい状況でも頑張れるのか。文化祭開催という、信じて望む未来があるからである。「何度負けても、最後に勝てばいいんだ」と語る山崎の優しい表情に胸打たれた。問題に向き合うことの重要性に迫る台詞だと感じる。用意したヘルメットに自らが「信じるもの」を記入する場面では、山崎らしく前向きに演じる部員たち。どんな困難な状況であっても、どの時代であっても、信じるものがあれば目標へ向かって突き進めると感じた。山崎は「未来」を信じ、自主文化祭開催にこぎつけた。同様に金蘭会高等学校演劇部も「上演できる未来」を信じて走り抜いた。作品を通じて、高校生の持つ力強い芝居のエネルギーで観客たちを勇気づける。さらに懸命に今を生きること、明日を信じ挑戦することの大切さを思い出させてくれた。劇中歌である「私たちの望むものは」に「今ある不幸にとどまってはならない まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ」という歌詞がある。コロナ禍という困難な現状でも、私たちの望む未来を手に入れる行動を、今こそ起こすべきなのかもしれない。
(大阪芸術大学短期大学部 メディア・芸術学科 メディアコース 大野紗波)