関西弁で演じる古代ギリシャ悲劇
近年、ギリシャ悲劇に力を注いでいる清流劇場。昨年は『エレクトラ』を原作とした『台所のエレクトラ』を上演した(2023年10月14日、大阪市の一心寺シアター倶楽で所見、エウリピデス原作、田中孝弥上演台本・演出、丹下和彦原作翻訳・補綴・ドラマトゥルク)。
ここ数年の清流劇場のギリシャ劇は、大阪ことばで演じられている。関西では10年ほど前から、セリフを関西弁で書き、演じる舞台が増えてきた。シリアスだったり軽やかだったり、作品の内容はさまざまである。本作のパンフレットで、演出家・俳優たちは関西で暮らしているため、その地域の言葉として大阪弁で演じている旨、田中氏は述べている。かつては関西弁の芝居=喜劇もしくは根性ドラマというイメージがあったが、今は違う。もちろん喜劇は大切な関西の文化である。しかし、関西人の日常生活がいつも喜劇であるわけはないのだ。
大阪弁のセリフのやり取りは親近感を抱かせる。本作の幕開けは、エレクトラ(中迎由貴子)と夫(上海太郎)がアパートで夕食をとる場面である。アジフライが食卓にあるのを見た夫が「えらい豪勢ですやん!」と声をあげたり、王女であるエレクトラが「ホンマ、おおきに」と返したり、生活言語で交わされる会話に、登場人物や物語世界を身近に感じることができた。
また、本作は、エレクトラが住むアパートの台所でほとんどが展開される。『台所のエレクトラ』という題名通りだ。台所は誰にとっても馴染みのある場所である。家にいて、台所に一歩も入らない日は、まずないだろう。ここにも親近感がある。
この親近感は共感につながる。100年経とうが1000年経とうが、人間の考えることや行動は変わらない。わかるわかる、と観客はうなずけるのだ。洋の東西を問わず古典作品が今も上演され続けているのは、そんな普遍の感情が表現されているからである。これも清流劇場がふだんから示している見解であり、その方向性が発揮された。
息詰まるやり取り
ただし、親近感だけでは終わらない。追放されたエレクトラの弟・オレステス(勝又諒平)たちの帰還、エレクトラの父である国王・アガメムノンを殺したアイギストス(上海太郎・二役)への復讐といった、根幹となる内容はたっぷり描かれている。中でも緊迫感に満ちていたのは、エレクトラとその母・クリュタイメストラ(八田麻住)が対峙する場面だ。
クリュタイメストラはアイギストスと共謀して夫を殺害、アイギストスと結婚した。エレクトラとオレステスは父の仇討のため、女王となった母を亡き者にする決心をし、クリュタイメストラを自宅に呼ぶ。冷たく接するエレクトラ。そんな娘に対して、クリュタイメストラは、夫を殺したのは、自分たちの長女を生贄に差し出して命を奪ったからだと、理由を告げる。しかし、エレクトラは、自分たちはその後に追い出され、生きながら殺されていると受け止めている。双方の埋まらない溝がセリフを通して浮かび上がる。
やり取りの途中、クリュタイメストラは、持参したお土産の饅頭をエレクトラに勧める。エレクトラはクリュタイメストラにお茶を勧める。しかし、お互いに相手が勧めたものを口にしない。「どんな雑菌が入ってるか」と言いながら、毒が入っているのではないか? 二人とも疑心暗鬼になっていることが伝わってきて、客席にも緊張感が走った。その後、エレクトラは弟たちと共にクリュタイメストラを殺めるのである(ちなみに、その直後、饅頭には毒が入っていなかったことがわかる。一方のお茶には、毒を仕込んでいたことが示唆される)。
この一連の場面では息詰まるやり取りが交わされ、密度の濃い成果をあげた。大阪弁は笑いや根性に特化しているわけではないのである。親近感と緊迫感がバランスよく共存した、独自性あるギリシャ悲劇の上演であった。