共通舞台は、2018年に結成された京都を拠点とするカンパニーである。近年は既存のテクストと現代の俳優との関係性を丁寧に観察する創作を行ってきた。2023 年の「ハムレット」に続き、新たに取り上げたのはウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」。3時間半におよぶ見ごたえのある意欲的な舞台に仕上がっていた(2024年9月25日、THEATRE E9 KYOTOで観劇。村上太基演出)。
正攻法のアプローチ
宿敵同士である二つの家に生まれたロミオとジュリエットが一目ぼれの恋に落ち、結ばれるが、やがて相次いで非業の死を遂げる――。周知のように原作は世界中で親しまれている恋愛悲劇であるが、今回の上演では、原文のリズムと響きを活かした河合祥一郎氏による日本語訳を、ほぼノーカットで使用している。戯曲の改編はなく、奇をてらった解釈もほどこしていない。その意味で、きわめて正攻法といっていいアプローチを意識的に選びとっている。シェイクスピア劇と現代を生きる俳優の問題意識とをいかに切り結ぶことができるのかという点にねらいを定めて、テクストに真正面から挑んでいることが清々しかった。
無機質な空間、台詞の応酬
劇場には、簡素で抽象的なセットが設えられていた(舞台美術はクリエーター集団・NEWDOMAINが担当)。ホール入口から舞台へ、客席を貫くように伸びている通路に白いカーペットが敷かれている。舞台奥にはハーフミラーのパネルが3組並び(鏡とガラス、両方の性質を備えた特殊素材)、さらに間仕切りの向こうにイントレで二階舞台が組まれている。
小劇場の規模に上手くフィットする無機質でクールな造形であるが、開演すると、この空間で総勢17名の俳優による台詞の応酬がくり広げられることになる。俳優たちのエネルギーと疾走感を引き出しつつ、広場や街頭の場景、あるいは有名な仮面舞踏会やバルコニーのシーンを次々と展開させていく演出の手腕には、非凡なものが感じられた。
ミクロな揺れ
惹かれ合うロミオとジュリエット、敵対し合うモンタギュー家とキャピュレット家の人々。さらに両者を媒介する修道僧・ロレンスや、人民を統治する大公・エスカラスなど、さまざまな人物の思惑が絡まり、すれ違うシェイクスピアのドラマの面白さだけではなく、今回の上演は、俳優の演技に不思議な魅力があった。率直にいって、個々の俳優の技術(台詞回し、身体所作など)にそれほど耳目を奪われることはなかったが、それとは別に、いわく名状しがたい魅力が含まれているように感じられたのである。
目の前で生きている俳優のありようにじっと集中していると、たとえばロミオ役の鈴木嵩久とジュリエット役の中原心愛の内部で起こりつつある心の動き、それも振動のようなミクロな揺れに、思わずひきこまれる。相手への想いが強すぎて、それをどのように発散してよいのかわからない、といった切迫した状態。そんな焦燥にかられている若い恋人たちの敏感な感受性がみずみずしく伝わってきた。
独特の共鳴、共在感
ロレンスとモンタギュー夫人の二役を演じた細江祐子、乳母役の酒井信古をはじめ、若い恋人たちをのみこむ破局の運命をそれぞれの立場で受けとめる他のキャストにも、それぞれ見所があった。それらとともに印象に残ったのは、17名の俳優の演技の質に多少バラつきがあったにもかかわらず、そこに独特な共鳴のようなものが醸し出されていたことである。
俳優たちは、様相に違いこそあれ、現代を生きる自分自身の抱えている問題との結びつきを大事にしていた。言い換えると、演技の技術的な処理にとらわれずに、シェイクスピアのテクストといわば体当たりで格闘しているようだった。そうした姿勢が、集団内で深く共有されることによって、同じ劇世界のなかで呼吸し、立ちふるまう者としての独特な共在感が立ち現れつつあったのかもしれない。
純粋なクリエイション、純粋なドラマ
本公演の来場者には、40ページを超える充実したパンフレットが無料で配布されている。内容の大半は、10ヶ月ほどの創作プロセスの一端を窺うことのできるドキュメントとなっているが、そのなかで演出家は、共通舞台が目指す表現の理想について、「嘘のない、正直さ」「混じりけのないもの」という言葉で言い表している(当日パンフレット掲載の「制作記録」「演出・村上太基による独白」などを参照)。
表現する自己自身の根拠をひたむきに問い直す純粋なクリエイションと、「ロミオとジュリエット」という純粋な愛のドラマ。二つの対応が単純なものでないことは、舞台に持ち込まれた特殊な鏡の効果が、象徴的に物語っている。
澄んだ実像、ぼやけた鏡像
先に述べたように、今回の上演では舞台奥にハーフミラーのパネルが、三面鏡のように少し角度をつけて並んでいる。終盤、それまでバックステージだった間仕切りの奥を見えるようにして、そこに仮死状態の冷ややかなジュリエットの姿を浮かび上がらせる特別な演出があるが、ハーフミラーの基本的な働きは、劇の進行中、俳優たち、観客たち、それに白い通路を、ぼやけた鏡像として映し出すことにある。
観劇中、ふと何気なく実像と鏡像が多重化している面白さが感じられてくるのだが、こうした像の混交はシェイクスピアの劇言語と呼応するものとして捉えることもできる。「ロミオとジュリエット」には、若い恋人たちの純粋な愛の言葉と、大人たちの不純な言葉遊び(下世話な駄洒落、冗談)が絶妙に混ざり合っている。さらに共通舞台が理想とする純粋さが、世間のしがらみと無縁ではないことを踏まえると、澄んだ実像とぼやけた鏡像の混交は、フィクションの美しさに自足することなく、それをわたしたちの複雑な現実へと開くきっかけであるといえるかもしれない。
演技と集団性をめぐる課題
最後に、共通舞台が今なお成長し続けている若いカンパニーであることに留意して、今後、課題となりそうなことについて付言しておきたい。
このカンパニーが大事にしている、創作メンバー全員でディスカッションを重ね、一人一人が表現することの内的な必然性を形づくる協働のプロセスは、とても貴重である。ただ、それをより充実したアーティスティックなコミュニケーション、ひいては見事なアンサンブルへと発展させるためには、さらなる手立てが必要となるのではないだろうか。
演技表現は自然に任せるとリアリズムふうのものに流れることがあるが、一方、韻文と散文の巧みな使い分けからなる「ロミオとジュリエット」のような戯曲は、そもそもリアリズムとは発想を異にしている部分が小さくない。そうした原作の質を慎重に見極め、そこに拮抗する集団的な演技のありようを模索することは、個々の営為のとりまとめだけでは、なかなか片づき難い課題といえるかもしれない。
もちろん共通舞台の創作にとって、このような課題を一挙に解消するために、演出家主導による演技のスタイル化、もしくは既存の演技メソッドの導入が、安易に創作現場で採用されることは、おそらく相応しくないだろう。これまでの歩みをさらに推し進める試行錯誤のなかで、今後より深く集団的な演技のありようが吟味されることを大いに期待している。