阪神・淡路大震災から30年
阪神・淡路大震災から30年目をむかえる今年、兵庫県立ピッコロ劇団が別役実の『神戸 わが街』を上演した(2月22日観劇、兵庫県立芸術文化センター 阪急 中ホール)。本作は2004年、震災から10年に際して、ピッコロ劇団に書き下ろされた作品だ。ソーントン・ワイルダーの『わが町』の潤色作品でもある。今回、劇団員の吉村祐樹の演出で再演するにあたり、初演ではなかったプロローグが付け加えられた。舞台中央には上手から下手(舞台に向かって右から左)へとゆるやかに下るスロープがあり、無印だが、汽車の停車場を指すかのような標識が立っている。上手前方には白い模型が置かれており、街を形作っているようだ。それ以外には何もない空間に、出演者たちが椅子やテーブル、梯子などを持って現れるとプロローグが始まる。出演者たちの挨拶があり、ワイルダーの『わが町』についてかいつまんだ作品解説がなされる。最後、別役劇には欠かせないものとして電信柱を立て、別役は『わが町』をどのように脚色したのでしょうか?と一声あって、いよいよ本編となる。 プロローグが付け加えられたこともあって、登場人物というよりも、それを演じる劇団員たちの心の揺れが伝わってくる舞台だった。生っぽさ、とでも言おうか。それは乾いた風がそよぐ別役劇には馴染まないもののようにも思えたが、意外にもこちらの心にすとんとおさまった。観る者の心を揺さぶる共振力は本作から滲み出る作者・別役実の死生観によるところも大きい。では、別役はワイルダーの『わが町』をどのように潤色し、ピッコロ劇団は2025年のいま、本作にどのように向き合ったのだろうか。
無調から方言へ
タイトルに「神戸」と付いてはいるが、本作は単に舞台を神戸に移し替えただけの作品ではない。1995年1月17日に多くを失った街・神戸の物語であり、同時に、あれから30年の間に各地で起こった災害で大切なものを失った人々の心をも慰める作品でもある。 阪神・淡路大震災は別役の作風に大きな影響を与えた。『神戸 わが街』より10年前、すなわち、震災が起きた年の1995年に別役は『風の中の街』をピッコロ劇団に書き下ろしている。震災が起こったことで、当初の予定を延期して上演するにあたって、別役は台詞を関西弁になおしたという。別役劇の特徴に、電信柱一本とベンチだけといったような簡素な舞台空間と、女1、男1といった記号化された登場人物とその折り目正しい言葉遣いがあげられる。個性のない言葉づかいは無機質で乾いた印象を与え、かつて、劇作家・演出家の田中千禾夫はそれを「無調」と評した。そうした別役の劇文体に大きな変節をもたらしたのが震災後のピッコロ劇団での公演であった。内田洋一は、方言を取り入れた『風の中の街』についてこう評している。
『風の中の街』で震災後の現実が濃厚な関西弁から思いがけない形で伝わってくるのに鮮烈なおどろきがあった。一時的に難民状態におちいった人たちがそこかしこで話すあいさつ言葉、その生活感が舞台に立ちこめていた。なにしろ、劇場の外では行き場を失った小市民たちがまさに放浪者となって行き暮れていたのである。(内田洋一『風の演劇 評伝別役実』)
それまで無国籍、無調とされてきた別役の劇言語は方言によって肉感的になり、以降、別役は演劇における方言の効用を説くようになったという。『神戸 わが街』でも登場人物たちは関西弁を話している。しかし、一人だけ標準語で話すものがいる。進行役という登場人物だ。なぜ彼だけは話し言葉が違うのだろうか。
『わが町』にはたらく法則
その答えは、本作が神戸という個別具体的な場所の物語であり、同時に神戸ではない街、誰かにとってのわが街とも感じさせる物語でもあるという二重性に関わっている。
この二重性はもとになっているワイルダーの『わが町』にすでに備わっているものだ。ワイルダーの『わが町』は1938年に発表され、その後、ピューリッツァー賞を受賞。今日まで繰り返し上演され、各地で愛され続けてきた名作だ。とはいっても、何か大きな事件が起こることもなく、痛烈な社会風刺や政治的メッセージが盛り込まれているわけでもない。そこで描かれるのは慎ましい日常の風景だ。物語の舞台はアメリカ合衆国ニューハンプシャー州グローヴァーズ・コーナーズという架空の小さな町。時は1901年、1幕は隣り合う二つの家族、ギブス家とウエブ家のごく普通の日常が描かれる。その3年後、ウエブ家の娘エミリーとギブス家の息子ジョージは共に16歳になり、結婚することになった。2幕は2人の結婚式の朝を描く。3幕はさらにその9年後、舞台は丘の上にある墓地に変わる。死者たちが静かに町を見下ろしている。そこへ死者となったエミリーがやってくる。彼女はお産で命を落としたのだった。彼女はもう一度生前の世界に戻りたいと願い、時は12歳の誕生日の朝に巻き戻される。死者となった彼女の目には家族の何気ない日常の風景がとてつもなく美しくかけがえのないものに映るが、生者たちはそのことに全く気づいていない。エミリーはその様子を見て、人生というものを理解できる人間はいるのだろうかと問いつつ、もとの墓地へと戻る。
さて、本作には以上の物語を一歩引いたところから眺めている、舞台監督という登場人物がいる。舞台監督は場面が変わるとそれがいつ、どこなのかを説明し、物語の進行役をつかさどっている。舞台監督は舞台上で展開する物語と客席の間、すなわち虚構と現実の境界線上に立ち、両者を橋渡しする役割を担っているのだ。1幕はこの舞台監督がステージに現れるところから始まる。舞台上に装置はなく、幕もない。そこに舞台監督がテーブル、椅子、ベンチを置き、この劇の作者、演出家、出演者を紹介する。そしてニューハンプシャー州グローヴァーズ・コーナーズという町の物語であると説明すると、物語が始まるのだ。このように、ワイルダーは舞台監督を通して意図的にこの物語がどこの誰の物語なのかを特定している。どこにでもある町のどこにでもいる人々の出来事とはしていないのだ。
そうであるにもかかわらず、観客の多くは舞台上の出来事を自分のことのように錯覚する。特定の街の特定の人々の物語ではあるが、そこで繰り広げられるのは、歯を磨く、朝の身支度をする、他愛もないおしゃべりをするなど誰もが何かしら経験したことのある出来事だからだ。
別役はこのことについて「特殊化すればするほど普遍化する」という法則が働いているとして、次のように述べている。
ここには「特殊化すればするほど普遍化する」という法則が働いている。奇妙な話だが、世界の片隅で発生した小さな出来事は、「どこにでもあるよ」ということでどこにでもあることを伝えられるのではなく、「ここにしかないよ」ということで、逆にどこにでもあることを伝えられるのだ、ということである。
(別役実「奇跡のように美しく、数学のように硬質な舞台空間の成立の秘密」)
ワイルダーの『わが街』は、その始まりは「幕なし、装置なし」とト書きで指定され、簡素な、そして客席と地続きであるかのような空間として立ち現れる。そこに舞台監督によってごくシンプルで必要最低限の道具が運び込まれ、時にそれはエミリーの家の食卓になり、また、ジョージの家のそれになり、そして町のミルクホールのテーブルとなる。この演劇的仕掛けを支えるのは観客の想像力であり、簡素で何にでも見立てられる空間は観客自身の経験を重ねやすくもある。一方で、それとは相反するように、この物語がいつどこの誰の物語かをワイルダーは厳密に具体的に指し示してもいる。「どこでも」と「ここにしか」の間の往還運動によって、観客は目の前に立ち現れる空間をグローヴァーズ・コーナーズという町として、そして自分自身の街としても受けとめられるのだ。
いまだ鮮やかな震災の記憶
別役はこの特殊化すればするほど普遍化するという法則を慈しむように、『わが町』を潤色し、震災の記憶と「いま」を生きる観客との間をつなぐ橋をかけようとした。 物語の展開は概ね『わが町』を踏襲している。ちなみに、別役は本作に限らず、町ではなく街の方を好んで使っていた。舞台監督の役割は「進行係」という人物が担っている。その役割から考えるに、進行係だけが標準語をしゃべる理由とは、舞台上の虚構の世界と客席という現実の世界の境界線上にいて、両者を取り持つ立場にあるために、できるだけ個性を脱色した言葉である必要があったのではないだろうか。進行係が要所要所で語ることで、物語の個別具体性は普遍化の方向へと押し広げられるとも言える。進行係とは虚構と現実、個別性と普遍性の間の緊張関係を維持するために、それぞれの比重の調整役のような人物でもあるのだ。 ただし、『神戸 わが街』ではこの緊張関係が崩れる場面がある。3場になり、進行係を介してこの物語の舞台が阪神・淡路大震災によって被災した街でもあることが告げられる場面だ。3場が始まると進行係は2場から9年経ったと告げ、次のように語る。
もちろんこの街も変わりました。五年前の一九九五年一月十七日、午前五時四十六分、明石海峡、北緯三十四度三十六分、東経一三五度〇二分を震源地とする、マグニチュード七・三の大地震が発生、死者六千四百三十四人、全壊家屋十万棟、被災者数三十二万人という、大災害をもたらしたのです。ひとつの街が、というよりひとつの文明が引き受けるには、大きすぎる惨事ということが出来るでしょう。街を歩くとまだそこここに、災害のつめ跡が生々しく残されております。これほど大きな変化をこうむった街……。ですが、にもかかわらず、というより、だからこそと言った方がいいんでしょうか、私は、そうでありながらこの街の、変わらなかったことの方に目が向いてしまうのです。
それまで本作はワイルダーと同じく、グローヴァーズ・コーナーズの二つの家族を中心とした物語だったが、街の住人たちは関西弁を話している。話し言葉はローカルなものであっても、あくまでも舞台上に描かれる街は架空のアメリカの街として観客の目には映っていたが、物語の舞台が神戸であることが告げられることで、住人たちの話し言葉と物語のつながりが俄かに緊密化する。虚構と現実のバランスが崩れ、現実が生々しく迫り上がってくるのだ。加えて、被害について形容詞的に語られるより、数字を並べられた方が真に迫ってくる。ワイルダーが劇冒頭にほどこした仕掛けのように、別役は進行係にこと細かく、震災の規模を進行係に語らせることで、これが他でもない、震災後の神戸の物語であるとしているのだ。
進行係を演じた今仲ひろしは、それまで飄々とした佇まいで物語を俯瞰していたが、震災の描写の場面では声に力がこもっているように感じられた。なぜなのか。ここで冒頭のプロローグが思い出される。あのプロローグは作品解説だけでなく、この劇を誰が演じているのかを見るものに強く意識させる効果があった。その上で、先の場面についても進行係の演技として受けとめると、やや大袈裟に感じられるものも、役を演じる俳優と震災との心の距離がそこにあらわれていると捉えれば、納得する。今仲をはじめとするピッコロ劇団にとって阪神・淡路大震災の記憶は30年経っても鮮やかなのだ。そして、そう感じた観客であるわたしにとっても、震災に傷ついた街の姿はあまりに生々しく身近なものなのだ。こうして本作は30年前の神戸の物語を介して、いまを生きるわたしたちと震災の記憶との心の距離を浮かび上がらせているのだ。
永遠なるものとして確かめられる日まで
震災に触れられたあとの何もない舞台は、まるで被災した直後の神戸の街のようでもあり、そこに出演者がテーブルや椅子を運び込む様子はかつてあった街の姿を再現しようとしているかのように見える。その一方で、生々しく現実感が前傾化したあとでも、本作は震災で傷ついた神戸という街の物語として閉じていくのではなく、広がりをもって終幕をむかえる。別役は進行係にこうも語らせている。
でも、やがて時がたつ……。晴れた日、雨の日、風の日……。そして我々は、悲しみというものが、静かに流れる時間のようなものに思えてくる……。ね、この時ですよ、死というものが永遠なるものと結びついて考えられるようになるのは……。その人の面影でもない、その人の思い出でもない、その人の名前でもない、その人の残した物でもない、それらは次第に薄れて、何かしらもっと手堅い、何かしらもっと確かな、永遠なるものとしてそれが確かめられるようになるんです……。
時の経過は死者を忘却の彼方に押しやるのではなく、むしろ、より確かな永遠の存在へと変容させる。作者の壮大な死生観は、死者を悼む者の心に優しく寄り添う。死者となったエミリーは生前の家族とのひと時を見て、人生というものを理解できる人間はいるのだろうか?と問うていた。彼女が思う通り、わたしたちは悲しみがいずれ静かに流れる時間のようなものに思えてくるなどとは思えず、いま抱えている悲しみにとらわれてしまう。しかし、それでいいのだ、と作者は言っているのではないだろうか。いずれ死が永遠なるものとして確かめられるまで、嘆き悲しみ、声をあげて泣いてもいい。それが、「いま」という時間の中で死者を悼むすべなのではないか。
2011年3月11日に起きた東日本大震災からまだ日の浅い5月。こまばアゴラ劇場で開かれた「焼け跡と不条理」という対談で、別役は対談相手の平田オリザにこう語ったという。当時、話題となっていた宮沢賢治の『雨ニモマケズ』についてだ。
私もあの詩は好きだし、あの詩が三月十一日以降、多くの人に読み継がれているのはいいことだと思う。ただ、あの詩で本当に大事なところは、『雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ』頑張っていこうというところではないのではないか。本当に大事なのは、『日照リノ時ハ涙ヲ流シ、寒サノ夏ハオロオロ歩キ』の方なのではないか(平田オリザ「オロオロ歩ク」より)
別役は「頑張ろうと励ますことも、たしかに大事かもしれないが、本当に大事なのは、きちんと嘆き悲しむことだ。そこからしか真の復興はありえない」とも語ったという。別役にこう語らせたのは、彼自身、幼少期経験した、満州からの引き揚げ体験であり、阪神・淡路大震災の記憶だろう。震災をきっかけに生まれた『神戸 わが街』は、上演されるたびに、演じるもの、観るものが抱える震災の記憶を映し出すはずだ。きっとその度に街をめぐる対話も生まれるだろう。そうして神戸という街の物語は、誰かの、そして、どこかの街の物語となって、未来へと続いていくのである。