コロナからの復興企画~関西演劇を広める、広げる

関西えんげき大賞

の劇評 分断社会を乗り切る。MONOの新作『悪いのは私じゃない』は、オフィスが舞台の会話劇 VIEW:1386 UPDATE 2022.02.22

かつてないほど、コミュニケーションの懸案が加速しているのではないか。コロナ禍での社会の分断。SNS上の負の応酬。そしていじめ、パワハラ。MONOの土田英生の新作『悪いのは私じゃない』(3月23日~27日、大阪市のABCホール)は、現代社会の人間関係の難しさが、オフィスを舞台に描かれる。テーマは真摯だが、笑いのセンスが抜きん出る土田の筆力と演出、そして、俳優達の息の合った演技により、「ちょっと間抜けでまじめな」ユーモアたっぷりの会話劇が楽しめそうだ。
また、コロナ禍で、今、アーティスト達は様々な苦難の中にいる。かつて大阪で劇場閉鎖が相次いだ2000年代初頭、「大阪のど真ん中に小劇場を取り戻す会」を結成するなど、演劇を巡る環境整備の積極的活動も行ってきた土田英生に、新作の話とともに、関西演劇界に、今、どんな懸案を感じているかを語ってもらった。

新作の創作のきっかけは、身近な人間関係の問題

新作の舞台は、近くに新幹線が走る、地方の小さな会社。最近、一人の従業員が退職。いじめに遭ったと告発され、会社は重い腰を上げ、調査する。総務部の二人が、社員やアルバイトに聞き取りをするが、誰の言い分もまっとうであり、誰が悪いのか、原因が特定できない。やがて調べる側の二人にまで、矛先が向く始末。果たして誰が正しいのか?

創作のきっかけを、土田は次のように話す。「演劇界でもパワハラ問題が起きましたが、自分の周りでも、いろんな人間関係の悩みを抱える人がいます。両方に言い分があり、結論の出ない、難しい問題です。さらに社会を見渡すと、例えばSNSが、自分の想像とは異なる方向に進んでしまっています。何かが起きた時、僕が意見を表明すると『お前はそっち側の人ね』と、簡単なところに追い込まれて、単なる石の投げ合いになってしまう。分断が加速し、喧嘩はあるが、話し合いの場がないように思います。単に白黒に分けて敵対し、異なる意見の『間』、合意形成を見出そうとしていないのではないか? テレビ報道を見ていても、例えばある委員会が告発された時、理事長が『今は言えません』と言っただけで、理事長が諸悪の根源とされて、流布してしまう。実際に組織の内側に入ると、被害を訴える側にも問題がある場合もあると思うのですが」。
正解は何なのか、着地点の難しい人間関係の問題。そのもつれの糸を、どうほどいていくのか。多様な会話の末に、どんな考えるヒントを提案してくれるのかが、楽しみな舞台である。

台詞として「パワハラ」は書かない

組織内部のパワハラが主題ではあるが、劇作家として「パワハラ」という言葉は、台詞には書かないとのこと。理由は「パワハラという言葉は、フィクションとしての舞台言語に消化できないからです。現実にフィルターをかけて変質させるのがフィクションであり、台詞です。例えば、ローソンという言葉も、僕は台詞に書きません。現実に、今、前を通ってきたローソンのほうが、圧倒的にリアルだからです。コンビニという台詞も、やっと3年前に書けるようになったばかり。スマホ、LINEも、まだ書けません。台詞では例えば『連絡、来た?』と、僕は書きます。50年ぐらい当たり前に使われた言葉は書けます」。

MONOの集団性とは

毎回、個性的なキャラクター造形も魅力のMONOの舞台。今回も、多彩な人物像が描かれる。若い俳優達が2018年に4人入団したことで、幅広い世代が描かれ、本作でもジェネレーションギャップによる齟齬を浮かび上がらせる。社長に扮するのは、奥村泰彦。人は良いが、父親が先代社長だった頃からの古参の社員と、何となく話して済ませようとする。それに反発する若い社員達。

ちなみに、結成33年になるMONOの集団性はどのように維持されてきたのか。長年、ベテラン男優5人で活動してきた劇団に、20歳くらい年下のメンバー達が加わったことで、主宰者として意識していることを聞くと「きつい言い方をしないとか、『お前』と呼んだりしないこと。若いメンバーに、つい、使い走りのようなことを頼んだ人がいたとしても、必ず誰かが『それはダメだ』と止めてくれる」とのこと。公平性を維持する空気が集団内に出来上がっているようだ。

土田英生作・演出による兵庫県立ピッコロ劇団「いらないものだけ手に入る」が、文化庁芸術祭賞大賞受賞!

昨年10月に上演された、兵庫県立ピッコロ劇団「いらないものだけ手に入る」が、令和3年度(第76回)文化庁芸術祭賞大賞を受賞した。シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』をベースに、スペースコロニーを舞台に展開した土田の新作。恋愛喜劇仕立てだが、地球で戦争が勃発したことによるコロニー内の対立、急進的なナショナリズムの閉塞性や所有欲など、人間の本質を焙り出した秀作だった。
「受賞の知らせを聞いた時、とても嬉しかったです。そして、兵庫県立ピッコロ劇団にとって、本当によかったな、と率直に思いました。公立の劇団は日本には珍しく、大変貴重な存在ですが、勿論、運営の難しさもあると思います。もし県の予算がカットされたら、途端に危うくなってしまう存在でもあります。賞をとることで、行政や地域社会へのアピールとなり、存続の意義にもつながると思います」。

演劇界のピンチを乗り越えていくために

コロナ禍での文化芸術のピンチ。特に関西演劇界では、2000年代以降の相次ぐ劇場閉鎖や媒体の減少など、多くの喪失もあった。今、最も懸案に感じていることを聞くと「やはりお客さんの減少です。東京でも減っているように思います。『いろんな芝居を観に行こう』と思う人が、コロナをきっかけに、減っているように思います。MONOには、熱烈なファンがあまりいなくて、「一番好きな劇団は○○だけど、MONOも見に行く」という方が多いのではないかな。今、一番好きなアーティストは見に行くけれど、あれもこれも見に行こうとする人が減ったと思います。それと、コロナ禍で、友達を誘えず、一人で芝居を見に行く人が増えていることも、減少の一因。関西の若いお客さんは、MONOのことをあまり知らないと思います。若い劇団には若いお客さんが多いですが、そういうお客さんは、あまりMONOには来られていない。その方々が移動可能になるといいですね。活性化していくと思います」。

難局を乗り切るため、アーティストを取り巻く演劇関係者、発信者側に、もし望むことがあれば、本音で語って頂くことを求めたところ「これは、僕らの立場からの話になりますが、創作者と、創作者の周りにおられる方々との間に、少し溝があるように思います。創作者がどんな作品を作っているかへの興味より、○○さんが、そろそろ何かの賞を取るのではないか?とか、出世のことに目が行っているのではないでしょうか? 例えば、ウォーリー木下さんが、東京パラリンピックの開会式のディレクターとして注目されたことは、とても素晴らしいことです。でも、今までウォーリーさんが何をされてきたのか、劇団☆世界一団以来、今までの間にどんな舞台を作って来られたのかを、皆さん、ちゃんとごらんになっていたのかな?という気がします。僕自身も、京都で、松田正隆さんや鈴江俊郎さんと一緒にいて、3人の中で次に出てくるのが土田で、という言い方を、ずっとされてきましたが、僕ら、そういう風にレースをしていたわけではないし。演劇がやりたくてやってきただけなのに、外側のことだけ語られている不満はありました。どんな賞であっても、『何かの賞を頂いて認められるために、芝居をやっているわけではない。作りたくて作っているだけであり、賞をどうやったらとれるかを目的化しない』と、自分の中で確認しています」と、率直に語ってくれた。
さらに「若い才能を話題にし続けること自体は、とてもいいことです。でも、長い間、着実に創作を続けている人達が、わーっと(メディアで)取り上げられることがない。何かで注目されたから特集するだけでなく、そうでない時、どうしているか、がないと、賞をとった劇作家や新しく人気の出てきたところばかり取り上げられることになってしまう。今、内藤裕敬さんが何を考えているのか? 岩崎正裕さんは、この後どうしようとされているのか? そういうお話を聞ける場があるといいですね」。

この状況を乗り切るために、土田自身が行いたいことは「若い創作者と、もっと会話し、交流していきたいと思います」。では、交流して、どうするのかを尋ねると「交流があるだけでいい。知り合うだけで大きいです。先日も、今の京都舞台芸術協会の方から、協会設立当時のお話をして下さいと頼まれ、喋ってきたのですが、それによって、若い知り合いが増えました。人を集めて出会うだけでいい。あとの事象は、自然発生します。気が合えば、盛り上がって連絡先を交換するでしょうし、例えば何かの企画で、若い作家を探している、ということがあれば、連絡できるでしょう。もし土田と、こういう人をしゃべらせたらいい、と思われたら、ぜひ機会を作ってください。お見合いのチャンス、演劇マッチングアプリを作ってくださいませんか(笑)」。
とても前向きなお話を伺うことができた。「関西えんげきサイト」を含め、「コロナからの復興企画~関西演劇を広める、広げる~」は、人の輪を広げ、出会いの場となることが大きな目的でもある。創作現場の声に耳を傾けつつ、さらに具体案を進めていきたいと思う。

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