コロナからの復興企画~関西演劇を広める、広げる

関西えんげき大賞

森山直人の劇評 上田久美子『バイオーム』評 VIEW:1628 UPDATE 2022.09.02

※本稿の「3」「4」には、ネタバレの内容が含まれています。本作の再演予定は、現時点ではなさそうですが、念のため・・・。


いま、日本で最も注目すべき演劇作家のひとりとして、疑いなく、上田久美子がいる。
宝塚歌劇団を、2022年3月末で突然退団した劇作家・演出家である彼女の、宝塚退団後の初めての公演が、6月に東京のみで行われた。
「スペクタクル・リーディング」という奇妙なサブタイトルのうえに、〈梅田芸術劇場プロデュース〉でありながら関西では上演がなく、見逃した人も多かったと思う。
そのような作品を本サイトで取り上げるのは、本来イレギュラーだ。だが、今回は、サイトの主催者にお願いして、特別に許可をいただいた。上田久美子という日本の現代演劇では稀な才能を、もっと多くの人に知ってほしいと考えたからである。


とはいえ、「上田久美子」という名前は、宝塚ファンの間ならもはや言わずもがなだろう。2013年に『月雲の皇子・衣通姫伝説より』でデビューを飾って以来、21年の『桜嵐記』に至るまで、約10年にわたって、彼女は鮮烈な作品を発表しつづけ、宝塚にたえず新風を送りつづけてきた。ただ、たしかに読売演劇大賞(2015年、優秀演出家賞)の受賞経験もあるとはいえ、その作品が「宝塚」枠を超え、現代演劇として評価される状況は、十分だったとは言えまい。「宝塚的」な文法とルールに沿って書かれ演出されていながら、たえず「宝塚らしさ」を揺さぶりつづけてしまうこと。そんな作家性をもった彼女が、突如、これからは「宝塚フリー」で作品を発表する、というのだから、これは無視できないニュースである。
ところで、私自身は最近ようやく宝塚を見始めたばかりで、映像以外で、直接彼女の舞台に接することができたのは、まだ数えるほどしかない。だが、昨年の、結果的に宝塚での最後の公演となった『桜嵐記』には、やはり強い印象を受けた。そのあたりはあらためて別の機会に論じることにしたいが、ひとまずここでは、新作『バイオーム』に絞って記述してみることにする。
なお、付け加えておくと、彼女は、もともとは宝塚ファンではなく、むしろ歌舞伎や人形浄瑠璃や泉鏡花、それに最近では、市原佐都子や木ノ下歌舞伎のような小劇場演劇もよく見ていることを公言してもいる。


「スペクタクル・リーディング」という形式については、現代演劇を見慣れた人には、要するに広い意味での「リーディング公演」だと想像してもらえばよい。中村勘九郎、花總まり、麻実れい、成河、古川雄大・・・といったキャスティングはあまりにも豪華だが、彼らは台本を見て芝居する場面もあれば、見ないで演技する場面もある。「本公演」でないのは、おそらくもろもろのスケジュール上の都合も大きかったのではないか。そして、作品のタイトルである「バイオームbiome=生物群系」とは、ある地域におけるつながりあった動植物の生態系全体を指す用語である。

ある大物政治家の一族に生まれた8歳の少年ルイ(中村勘九郎)は、大邸宅の庭の樹木、そのなかでも圧倒的な樹齢を誇るクロマツの木の高みに毎晩やってくるフクロウと言葉を交わすことを熱望する内気な子供である。彼は、屋敷に仕える庭師の娘だというケイ(勘九郎の一人二役)といつも行動をともにしているが、周囲の大人たちにケイの存在は見えず、問題行動だと思われている。
一方、ルイの母親である怜子(花總まり)は、老齢の大物政治家・克人(野添義弘)の一人娘だが、幼い頃に親の愛情を得られなかったばかりか、婿養子である代議士の夫・学(成河)との関係も冷え切っており、一人息子の行動も理解できない。孤独を深めつつ、いかがわしい女性占い師ともえ(安藤聖)に救いを求めようとしている。
ある晩、ルイがいつものように木々たちやフクロウの言葉を聞こうと、ベッドを抜け出してクロマツの木に昇っていると、彼は遠く足元で、父親・学が、密かに不倫相手の女性秘書と電話している現場を見てしまう。するとそこに、克人の代から忠実に仕えてきた家政婦のふき(麻美れい)がやってきて、学をたしなめる。口論のなかで、ルイはほかでもない父親が、自分を施設に入れる残酷な計画を秘めていたことを知ってしまう(ルイは、もはや「僕には人間の声は届かなくなった」と凍り付いたまま口にするしかない)。克人と学のあいだでは、ルイではなく、新たに世継ぎをもうける方針がすでに決められていた。もはや何の愛情も感じない夫が不意に寝室にやってきて、義務的なセックスをされた腹いせに、怜子は自分に好意をよせていた庭師のケイスケ(古川雄大)を無理やり自分の寝室に連れ込み、「二人の精液をシェイク」してやる。誰一人として、木の上にいるルイの姿に気づく家族はいない。
翌日、ルイの姿は庭に見当たらない。怜子はいつものようにともえに救いを求めるが、ともえは庭のクロマツに、生態系全体の調和を支える「ハブツリー」を見ようとする。その言葉に、文字通り「調和」の対極にいる怜子は感情を逆なでされ、二人の激しい口論に発展する。激怒した怜子は、ケイスケを呼び出し、クロマツをいますぐ切り倒すことを命じる。音をたてて切り倒されたクロマツの脇に呆然とたたずむ彼らのもとに、ケイスケの母親でもあるふきがやってきて問いただすと、自暴自棄に陥った怜子は、ふきの前で、ケイスケをなぐさみものにしたことを暴露し、生まれてくる子供が一族の跡継ぎに似つかわしくない、「ケイスケみたいな無学なバカが生まれてくればいい」と勝ち誇ったように言い放つ。
だが、まもなく怜子は、実は克人と家政婦ふきの間にできた子であることが判明する。怜子は、庭師の家で殺虫剤で自害する。一方、人間界のすべてから見放されたルイとケイは、切り倒されたクロマツの隣に残ったセコイアの巨木に昇って、フクロウの行方を確かめようとし、落下して命を落とす――。


さて、ここまでのあらすじだけみれば、誰が見ても完全無欠のメロドラマである。ところが、この作品の面白さはそれとは別の点にあるのだ。この作品には、そんな人間模様を見守る、コロスのような存在がいる。驚くべきことに、それは、クロマツをはじめとする庭の樹木たちなのである。
しかも『バイオーム』では、中村勘九郎以外のすべての役者たちは、たとえば麻実れい=ふき/クロマツ、成河=学/セコイア、・・・というように、人間界と植物界の一人二役を演じることになる。役者たちは、人間界の悲惨を激情的に演じながら、別の場面では、それらを別の生き物として、冷静に、客観的に観察する樹木たちを、並行して演じていく。一方では「人間」の醜さが徹底的に描かれつつ、他方では「植物」の淡々とした世界の存在が、対照的に進行していく構造になっているのである(――それゆえ、ルイ/ケイは、ふたつの世界をつなぐ〈あわいの場所〉にいる)。
すると、どんなことが起こるのか。メロドラマに感情移入するかわりに、観客には、そうした醜悪な人間模様が、ある種の大きな生態系の一部であるかのように見えてくる。樹木たちが〈別の視点〉を有していることは、彼らが〈別の言語〉を話すところにもあらわれている。たとえば、作者は、樹木たちに、「人間」のことを「ケモノ」と呼ばせていて、たとえばルイは、樹木たちから「二本足の小さなケモノ」と呼ばれることになる。感情をコントロールできなくなった怜子をケイスケが抱き留める場面であれば、「枝切りケモノが支えていないと母ケモノは倒れてしまいそう・・・」と、彼ら自身の言語で、あたりまえのように冷静に描写するのである。「ケモノ」という呼び方は、「理性喪失=野獣」という人間目線の比喩ではなく、彼らの目には人間もたんに動物の一種にすぎないから「ケモノ」と呼ばれているだけなのである。ちなみに、人間にとっての「善意」は、樹木たちには正反対の見え方もする。ケイスケが樹木によかれと思って散布する殺虫スプレーは、樹木たちにとってはただの「毒ガス」でしかない、というふうに。
だからこそ、物語の後半で、クロマツが切り倒されてしまったとき、観客は大きなショックを受ける。それは、たんに樹齢数百年の大樹が無惨に伐採されてしまったからだけではない。なによりも、それまでドラマの語りを支えていた〈人間界/植物界〉という安定した二元的世界全体の崩壊が実感されるからである。私たちは、コロスが登場人物たちに虐殺されるギリシャ悲劇をあまり見たことがないが、『バイオーム』ではまさにそういうことが起こるのだ。
けれども、虐殺されたクロマツは、最終場でもう一度登場する。落命したルイが、樹木たちが待つ暗闇にたどりつき、クロマツの存在に気づくと、クロマツはルイに向かって、「私たちは死んだのではない。ただ、変化したのだ」と告げ、深い緑の闇にルイを招きいれるのである。


ところで、上田久美子自身は、本作について次のように言っている。「私自身はスピリチュアルを信じているわけではないのですが、たとえば私たちが認識して「こうだ」と思っている世界以外の世界が仮に層になって重なっているとしたら、その世界は何を見ているんだろうと思って。私たちがこれしかないと思っているところに、全然別のメカニズムが働いたら、自分の中で固着した思想が解放されるかもしれないと思って、これを題材に脚本を書こうかなと思いました」(当日パンフレットの対談より)。また、別のところで、彼女は、自然を礼讃するためにこの作品を書いたのではない、とも言っている。
実際、この作品は、浅薄な「エコ礼讃」ではまったくない。むしろ、「複数の生を複眼的に観察してみる」ところに、この作品の主眼があったことが、作品を見終わったときに深く感じられてくる。自然が偉いわけでも、人間が偉いわけでもなく、両者が、「生」という、よく似た原理を生きているということ。そしてその原理とは、まさにクロマツの言う「死ぬのではなく、変化する」という言葉に表れている。その時私たちは、「幼いルイの犠牲」という一見メロドラマ的な結末が、メロドラマ的な先入観から解放され、それ自体が別の「生」を生き始めるのを目撃することになる。私たちはルイという主人公にメロドラマ的に同情する必要がもはやなくなっていくのである。見慣れた普通のメロドラマの風景であったはずが、いつのまにか、見慣れない風景のなかに連れていかれ、結末=結論ではなく、「新たな思考の始まり」の可能性の場にたどりつく。それは、『バイオーム』を普通に見始めたときには、観客の誰一人として想像できなかった場所なのだ。

演出は、NHK『精霊の守り人』なども手掛けた一色隆司。複眼的なストーリーをわかりやすく展開することには成功していたが、ややセンチメンタリズムに流されがちな部分も鼻に着いた。中村勘九郎や花總まりは、強い感情を表出しても「演技の輪郭」が崩れることがなく、不思議と嫌味がない。クロマツとふきを演じた麻実れいは、圧倒的な存在感で作品の支柱となっていた。
けれども、本作を非凡なものにしていたのは、やはり上田久美子の、作家としての力である。激情を激情として、しかし無駄のない文体で書き綴っていく「技術」の高さは、率直にいって、昨今の小劇場系作家が太刀打ちできるレベルではない。しかも、「小劇場系」の多くの舞台が、結局はありきたりのメロドラマ的抒情性の枠を抜け出られずにいる現状を思うとき、人は、メロドラマがメロドラマ自身から解放される瞬間そのものを堂々と書ききってしまった上田久美子の才能に、もっと真摯に向き合うべきだろう。
(2022年6月10日(13時開演)、東京建物 Brillia HALL(豊島区立芸術文化劇場)にて所見)

記事の執筆者

森山直人(もりやま・なおと)

多摩美術大学教授
演劇批評家

1968年生まれ。2001-2022年3月まで、京都芸術大学舞台芸術研究センター主任研究員、機関誌『舞台芸術』編集委員。2012-20年まで、KYOTO EXPERIMENT実行委員長。2023年から多摩美術大学教授。著書『舞台芸術の魅力』(共著、放送大学教育振興会)等。主な論文に、「「演劇的」への転回――「舞台演劇」の時代の「批評」に向けて」、「「日本現代演劇史」という「実験」――批評的素描の試み」。

森山直人