コロナからの復興企画~関西演劇を広める、広げる

関西えんげき大賞

劇評アーカイブス 日本社会の危機的状況を炙り出す炎 「ピッコロ劇団×松本修×関西俳優陣『三文オペラ』」 VIEW:1192 UPDATE 2023.03.16

ベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』は、眼前に迫る危機を敏感にキャッチする炭鉱のカナリア的作品だ。今回の兵庫県立ピッコロ劇団による上演は、現在の日本社会が直面している危機的状況を生々しく炙り出してみせた(2月18日、兵庫県立芸術文化センター阪急中ホールで所見、ブレヒト作、谷川道子訳、松本修台本・演出)。

魅惑的な舞台に紛れ込むノイズ

1928年に初演された『三文オペラ』は、ジョン・ゲイの『乞食オペラ』を原作に、ドイツの劇作家ブレヒトが戯曲を書き、クルト・ヴァイルが作曲を担当して生まれた名作だ。物語の舞台は 19 世紀ロンドン。盗賊の親玉メッキースは街で出会ったポリーを見初め、その日のうちに結婚式を挙げるが、実は彼女は「乞食の友商会」の社長ピーチャムの一人娘だった。娘を取り戻そうと、ピーチャムはメッキースの悪行を警視総監ブラウンに密告しようと画策する。だが、ブラウンとメッキースは戦友同士。そこでピーチャムはメッキースの愛人・娼婦のジェニーを買収し、ジェニーの裏切りによってついにメッキースは逮捕される。メッキースは絞首台に送られることになるが、ここで大どんでん返しが起こる。ピーチャムが、せめてオペラの中でぐらいは正義より恩情が通じ、観客が期待するハッピーエンドをお目にかけようと言うと、突如、国王の使者としてブラウンが登場し、女王陛下の恩赦によってメッキースは刑を逃れることになるのだ。
人を食ったような唐突な結末の変更こそ、本作では一番の見せ場であり、この場面こそ、上演時の社会を映し出す鏡と言っていい。では、今回の上演は一体何を映し出してみせたのだろうか。今回、ピッコロ劇団は演出に松本修を迎え、関西で活躍する俳優陣と共に本作に挑んだ。台本も担当した松本は、ドイツの大劇作家ブレヒトの代表作である本作を大胆に関西弁に変えてみせた。新喜劇のようなノリに観客の多くは親近感を抱き、物語世界に惹き込まれたに違いない。また、「オペラ」とあるように、本作には魅力的な劇中歌が散りばめられている。俳優陣は力の限り歌い、踊り、観客の心を劇世界に誘う。ポリーを演じた松下美波、ルーシー役の鈴木あぐり、そしてピーチャム夫人を演じた木下菜穂子の歌唱力には圧倒され、堀江勇気(マサイアス)と三坂賢二郎(ウォルター)が率いる盗賊団のダンスシーンには心躍った。同じく盗賊団の一味を演じた島田藍斗にはどこか憎めない愛嬌があって、彼以外の出演者も皆、人情味が溢れていて人間臭い。普段交わることはない、国も時代も異なるアウトローたちにしっかり心を掴まれてしまうのだ。
その一方で、観客たちは劇に没頭するのを邪魔するノイズも感じたはずだ。ステージ上には工事現場で足場として使われるイントレが組まれており、無骨な存在感を放っている。俳優陣は鉄の足場を軋ませながら演じ、踊り、歌う。出番が終われば舞台袖には引っ込まず、脇の方に待機していて、着替えをすることもある。本来であれば、煌びやかな表舞台の影に隠されているものが剥き出しになっているのだ。無骨な足場のような舞台裏を剥き出しにする演出以外にも、客席明かりを消さずに劇を始めるなど、松本はそこかしこにノイズを紛れ込ませ、観客の意識の半分を現実にとどめさせようと試みる。

思考停止状態に抗する異化効果

現実に引き戻されるような演出は、ブレヒトの演劇論では異化効果とされるものだ。観客が劇中の人物や出来事に感情移入するのではなく、心理的距離をおいて眺めるための演出効果である。現実に目醒めながら夢を見る――『三文オペラ』は観客を現実と夢の狭間に立たせる。それはなぜか。本作が初演された1928年前後のドイツに目を向けてみよう。1918年に終結した第一次世界大戦で、ドイツは多額の賠償金を背負う。それに伴い発生した大幅なインフレによって経済が混乱に陥る中、ヒトラーが『わが闘争』を出版するのは1925年。1929年には世界恐慌が起こり、ドイツ経済は破綻に追い込まれ、失業率が増加する。その3年後にはナチスが第一党になり、34年にはヒトラーが総統に就任する。このように第一次世界大戦後、経済状況の悪化を背景にナチスの暗い影が頭をもたげ始める中で『三文オペラ』は上演されたのである。
哲学者ハンナ・アーレントは、ナチス批判をこめた『全体主義の起源』(1951年)で、人々が共に生きる「共同世界」に対する関心を失い、政治判断を放棄したことが全体主義を生んだとした。アーレントがそれに気づいたきっかけとなったのが、ナチスの親衛隊員であり、ユダヤ人虐殺において主導的役割を果たしたアドルフ・アイヒマンの裁判である。裁判を傍聴したアーレントは、彼があまりに「普通」であったことに衝撃を受け、最も恐ろしい悪とは、凡庸さ・平凡さに潜んでいると説き、「凡庸な悪 The Banality of Evil」 と呼んだ。つまり、決して特殊な人だけがナチスを支持したのではなかったということだ。
当時のドイツ国民は経済競争に参画することで、階級から自由になる一方、階級に縛られていた時には共有されていた横並びの連帯感を失い、孤独で、殺伐とした競争社会を生き抜く必要が出てくる。その不安感につけこみ、安心させる「世界観」を与えたのが、ナチスだった。たとえば、1937年にニュルンベルクで開催されたナチの党大会では、サーチライトが効果的に用いられ、見事なイリュージョンとして大会を演出することで、ナチスは人々の心を魅了し、党の力を見せつけた。まさに、ナチスはアリストテレスが唱えた「カタルシス」を利用し、非常に演劇的な手法で人々を魅了したのである。
初演時の社会情勢を知ると、なぜブレヒトが異化効果を必要としたのかわかるだろう。ブレヒトにとって、異化とは見慣れた対象を奇異にみせることにとどまらず、それで違和感をおぼえた観客が、観劇後に自ら考えて、解決を探すことを目指している。本作のラストでブレヒトは、観客とは厳しい現実を忘れさせる「ハッピーエンド」を期待していると語りかける。これは、「それでいいのか?」という問いかけであり、観客に、思考停止状態から脱することを促すメッセージなのだ。

社会の今を映し出す鏡

『三文オペラ』初演時のドイツの社会情勢はどことなく今の日本を含む国際情勢に似てはいないか。ロシアによるウクライナ侵攻を契機に生じたインフレ。2020年以来強いられているwithコロナ生活。それらが引き起こしている経済不安。その背後で蠢くロシアとアメリカの対立。某タレントが今の世界情勢を「新しい戦前」と呼んで話題になったが、国際関係はかなり緊迫しているものの、日本国内においてはどこか緊張感が欠落している。それどころか様々な問題が、ことが過ぎてしまえば何ごともなかったかのように忘れさられてしまうのが常だ。東京オリンピック開催にしても、新型コロナウィルスへの対応にしても議論が尽くされることはないまま、ことが過ぎてしまえば、何ごともなかったかのように記憶がリセットされてしまう。それに輪をかけるように国会議員の公文書に対する意識の低さが露呈している。忘却が常態化してしまったために、それらを問題視する意識が麻痺し、「どうせまたうやむやにされて終わるのだろう」とつい、思ってしまう。
だからこそ、今回の上演ではラストのどんでん返しに生々しいリアリティを感じた。そこにははっきりと現在の日本で起きている忘却と、それを誘引する為政者による強権の発動が映し出されていたからだ。メッキースが絞首台に向かう時、他の登場人物たちは手に手に燭台を持ち集まる。これは戯曲にも書かれていることだが、松本は本火を用いた。燭台の蝋燭にゆらめく炎は見るものを幻惑する。それはまるで劇中歌や軽妙なストーリー展開といった本作の魅惑的な側面を表しているかのようだ。同時に、炎は現実に灯されているものでもあって、舞台と客席を橋渡しし、舞台上の出来事は現実でも起きているのではないか?と観客に問いかける。さらに、その炎は為政者による大悪党の恩赦を見過ごさない市民の眼としても深い印象を残したのだった。
最後に今回の企画についても触れておきたい。先に触れた通り、今回の企画はピッコロシアタープロデュース公演第14弾ということで、劇団の枠を超えて関西の演出家と俳優が集結した公演だった。それによって座組みに多様性がもたらされ、関西演劇の潜在力がより可視化される。こうした開かれた企画を実現するハブ的な機能を兵庫県立ピッコロ劇団が果たしていることの意義は大きい。今後もぜひ継続していってほしい企画である。

記事の執筆者

梅山いつき(うめやま・いつき)

近畿大学文芸学部芸術学科舞台芸術専攻准教授
演劇研究者

1981年、新潟県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。演劇博物館で現代演劇に関する企画展を手がけ、現在、近畿大学准教授。アングラ演劇をめぐる研究や、野外演劇集団にスポットを当てたフィールドワークを展開している。著書に『佐藤信と「運動」の演劇』(作品社、第26回AICT演劇評論賞受賞)、『アングラ演劇論』(作品社、第18回AICT演劇評論賞受賞)、『60年代演劇再考』(岡室美奈子との共編著、水声社)など。

梅山いつき