コロナからの復興企画~関西演劇を広める、広げる

関西えんげき大賞

劇評アーカイブス すっかり人間でなくなってしまう前に 若だんさんと御いんきょさん「中島敦の山月記から」 VIEW:594 UPDATE 2024.10.04

「若だんさんと御いんきょさん」は、演出家の田村哲男と制作者の若旦那家康によるユニットである。三人の演出家に同じテクストにもとづく小作品の創作を依頼し、それらを一挙に上演するというユニークな企画を、2019年からコツコツと続けている。これまで安部公房と山本正典(コトリ会議)の短編戯曲を取り上げてきたが、今回のお題は中島敦の短編小説「山月記」。日本近代文学の名作を共通の材料として、三人の若手演出家が、互いに全く趣の異なる三つの舞台を立ち上げる、そんな魅力的な連続上演となっていた(8月25日マチネ、THEATRE E9 KYOTOで観劇)。

原作の養分

「山月記」は、高校の国語教科書の定番教材でもあるが、おそらく多くの人がこの作品について最初に思い浮かべるのは、人が虎になる「変身譚」ということだろう。
主人公の李徴は、秀才の誉れ高い役人だが、自らの立場に満足ができない。後世に名を残そうと詩人をめざすが、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」のために才能を磨き切れずに挫折してしまう。そして再び地方役人となるが、その生活を屈辱と感じ、精神的に苛まれて、ついには虎になり果てる……。
今回の観劇にあたり、私もこのようなストーリーを頭によぎらせて観客席についたのだが、上演を観ていると、原作が物語以外の部分でも、舞台芸術にとって豊かな養分を含んでいることに、たびたび気づかされた。

二つの現代化

具体的な上演の模様を確かめていこう。三つの小作品の上演時間は、合計100 分ほど。いずれも舞台装置や装飾のないシンプルな黒い空間に、いくつか小道具を持ち込む程度の簡素な設えであることは共通していた。
最初の大川朝也(劇団白色)の演出作は、「山月記」の物語と実直に向き合い、現代化を図っている。原作のストーリーをほぼそのまま残しつつ、その漢文調に近い独特の語りを、現代口語のセリフへと書き換えているのである。上演では、李徴とその旧友・袁傪を等身大の人物としてとらえ直し、その上で二人の内的葛藤の再現に努めていた。全体として滔々と物語をたどることに終始し、演出的な視点をはっきりと打ち出せていなかったことは惜しまれるが、原作を口語体の会話劇に改変しようという意図は、観客席にストレートに伝わってきた。
2本目の下野佑樹(演劇創造ユニット[フキョウワ])の演出作も、原作の現代化には違いないのだが、きわめて大胆なアレンジをほどこしている点に特色がある。原作の李徴と袁傪は、早朝、林中の草地で邂逅するが、これに対して下野の演出では旧友二人が路上らしき場所で出会い「MCバトル」を演じる設定になっている。このような「状況の置き換え」に加えて、原作における李徴の自己陶酔的な(ようにも読める)物言い、その背後にある本音を抽出するという着想のもとで「セリフの書き換え」を試みているのである。
上演では、軽快なビートの音楽に乗って、黄色いパーカーを着た李徴と、ジャケット姿の袁傪が、言いたくても言えなかった言葉を、リズミカルにぶつけ合う。やがてラップバトルの煽り合いの末に、隠れていた二人の心根があらわになる。そんな場面展開のなかで、荒々しい罵倒とナイーヴな弱音を垣間見せる李徴の内面的な分裂が、鮮やかに浮かび上がっていた。

声と身体の響き

3本目の駒優梨香(世界平和書店)の作品は、抑制の効いた演出、それに声と身体の表現が際立っていた。前の2本のように原作の物語を舞台に移し替えることなく、つまり「状況の置き換え」や「セリフの書き換え」は行わずに、全く異なるアプローチで原作に応答している。
静寂のなかで、黒衣の三人が舞台の周縁を動き回り、寸断的に、時に伸びやかに次々と声を発する(多くは断片的な語音)。精妙に組み立てられた複数の声と打楽器の響きに呼応して、舞台中央にいるダンサーの張り詰めた身体が、内圧に抗うように捩れ、あるいは小刻みに痙攣していく。
上演中、言葉は稀にしか聞こえてこないので、目の前で起きていることが「山月記」とどのように対応しているのか、逐一確かめることは難しい。しかしヴォーカル・テクスチュアとムーヴメントの繊細な響き合いに集中していると、李徴の瀕している心身の危機が切迫したものとして感じられてくる。そんな不思議な体験をもたらす刺激的なパフォーマンスだった。

すっかり人間でなくなってしまう前に・・・

――己がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。

これは原作において動物的な本能に浸食され、人間的な理性を失いかけている李徴が、袁傪に語りかける言葉である。この一節に照らして、あらためて3本の上演を顧みると、三人の演出家がそれぞれのやり方で、李徴の特異な意識状態や身体感覚に着目していたことがよくわかる。
大川演出と下野演出は、現代的な翻案をベースに「すっかり人間でなくなってしまう」瀬戸際にあっても、なお捨てきれない人間的な執着を掘り下げている。これによって現代の落伍者、たとえば負け組として片づけられがちな人々の心象につながる世界として、「山月記」を再構築しているのである。一方、駒演出は「すっかり人間でなくなってしまう」心身の仕組みに、アクセントを置いている。現代における病理、たとえば「自分が自分である」という同一性の根拠が揺らぐような精神の失調を鋭く喚起していることにその本領はあった。
3本の上演は、「山月記」の現代性という問題に対して、さまざまな回答がありうることを示している。とりもなおさず、それは原作の豊かな養分を舞台表現に結実する多様な演出方法によって支えられており、そこに今回の連続上演の優れた部分が感じられた。

試行/思考の場

最後に、本企画が関西圏の新たな演劇の才能を紹介していること、特に自前で劇場を借りて公演することが難しい若手を対象とする、いわば「スタートアップ支援」の役割を果たしていることの貴重さを、改めて強調しておきたい。
若いアーティストが、思い切ってテクストの読み方や演出手法を試行することのできる場。そして観客が劇場体験を介して原作について多角的に思考することのできる場。そんな試行/思考の場の創出が、関西演劇の発展のために、重要であることは間違いないだろう。「若だんさんと御いんきょさん」の活動が、これからも地道に継続していくことを期待している。

記事の執筆者

新里直之(にいさと・なおゆき)

京都芸術大学舞台芸術研究センター研究職員
演劇研究者

現代演劇の批評、舞台芸術アーカイブをめぐる調査に取り組むほか、芸術実践と研究を架橋する活動をサポートしている。京都芸術大学芸術教養センター非常勤講師。野上記念法政大学能楽研究所客員研究員。ロームシアター京都リサーチプログラムリサーチャー(2019・2021年度)。論文に「太田省吾研究―「述語の演劇」へのプロセス―」(京都芸術大学大学院提出博士学位論文、2021年)など。

新里直之