「ことば」が作り出す空間
コロナ禍、再評価された小説『ペスト』の作者アルベール・カミュは、フランスの支配下にあったアルジェリアで育った。その生い立ちは、代表作のひとつ『異邦人』の主人公ムルソーのように、カミュにどんな国家や民族にも帰属意識をもてなくさせた。そんなカミュは国籍を問われて、こう答えたという。
ええ。ぼくには祖国があります。それはフランス語です。
カミュにとって、言葉によってつくられた祖国とは一体どんな場所だったのだろうか。高橋源一郎は、『「ことば」に殺される前に』のなかでムルソー=カミュが唯一生きられた場所とは、作品の中、すなわち、フランス語という「ことば」が作り出した束の間の空間だったとしている。
その空間だけが、彼を「等身大」の人間として生きさせることができた。フランス語という「ことば」が作り出した、束の間の、「文学」という空間。「文学」はあらゆるものでありうるが、自らが「正義」であるとは決して主張しないのである。「ことば」は人を殺すことができる。だが、そんな「ことば」と戦うことができるのは、やはり「ことば」だけなのだ。
(高橋源一郎『「ことば」に殺される前に』河出書房新社、2021年、22―23頁)
アゴタ・クリストフの『悪童日記』の主人公であり、タイトルにもなっている日記の書き手である双子もまた、「ことば」を必要とした人物だ。戦火の炎がじわじわと迫ってくる状況で、双子は疎開するために親元を離れ、母方の祖母に引き取られる。その後の生活は過酷なものだ。冷たく、汚れ、痛み、飢え、そして孤独な毎日を、泣くことも逃げ出すこともせず、淡々とサバイブしていく双子は、ある時、日記を書きはじめる。なぜ双子は日記を書きはじめたのだろうか?双子は言葉に何を求めたのだろうか?それはカミュのように生きるための武器だったのだろうか?
見るものに鈍痛をあたえる舞台
6月にロームシアター京都で上演されたサファリ・Pの『悪童日記』は、日記の体裁をとったこの小説を舞台化したものだ。今回は4度目の改訂版にあたる。その印象は“明”というよりは“暗”であり、“軽”では全くなく、“重”である。暴力的な場面では、見ていて思わず体をこわばらせてしまう。その点では“快”ではなく、“不快”と言ったら言い過ぎだろうか。装飾的なものは一切ない無機質な舞台に、簡素な身なりの俳優たちが身体のみを道具に、双子の物語を綴っていく。不思議なのはシンプルで抽象度の高い舞台であるにもかかわらず、ある具象性を伴って鈍痛を見るものに与えることだ。
2017年に初演された『悪童日記』は山口茜が上演台本を作成・演出した、サファリ・Pの代表作のひとつである。当日パンフレットに掲載されている、最新版に至るまでの変遷は次のとおりだ。まず、初演時には感情表現を避け、事実のみが簡潔に記された双子の日記の文体そのものを舞台化することで、観客に思考を促すような作品を目指した。それが2019年版では、双子の主人公のうち一人を女性が演じることで、第二次世界大戦下を子どもとして過ごしたアゴタ・クリストフ自身の姿を投影し、この物語が原作者の戦争体験からくるものであることを示唆。2024年版では、双子の疎開先となった祖母について、偏屈で厳しい老女としてだけでなく、祖母なりの愛情表現にフォーカスしたという。そうして迎えた今回の上演。小説に立ち返って、そこに書かれたことだけを舞台に引き写し、初演から貫く無機質な印象はそのままに、日記には決して記されなかった双子の感情をより強く感じてもらえるような舞台を目指したとある。
日記のルール
「そこに書かれたことだけを舞台に引き写す」という目標に至ったのには、原作にほどこされたある仕掛けが関係している。双子は、祖母から子どもとして守られ、愛されるようなことはなく、労働力としてあつかわれ、その役割を十分果たせなければ食べることもままならない。それどころか手を上げられることもしばしばだ。風呂に入れてもらうこともなく、服は擦り切れ、身体中汚れにまみれ、周囲からは疎まれていた。ある日、双子は日記を書くことを決める。屋根裏部屋を秘密の書斎にして、そこで見つけた聖書を暗誦することで言葉をおぼえ、作文をはじめる。「ぼくらの学習」と題されたある日の日記には、作文のルールについてこう説明されている。まず、「おばあちゃんの家に到着」や「ぼくらの労働」といった題で作文するよう、互いにお題を出し合う。書き終わると、互いに見せ合って良か不可かを判定し、適宜修正を加える。判定の基準について双子はこう説明している。
ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。(略)感情を定義する言葉は、非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。
繰り返しになるが、『悪童日記』は「双子が書いた日記」という体裁をとった小説だ。そこに書かれた文章は日記という括弧で括られることによって、「小説というフィクションの内側においてはノンフィクションでもある」という二重性を帯びることになる。「事実の忠実な描写だけにとどめる」というルールを素直に受け取るなら、読者は日記、すなわち小説の内側に生起する事柄は全て事実として読まなければならない。そこに書かれているのは、生きることの過酷さに疲れはて、こころを失った大人たちの不道徳で無慈悲な振る舞いである。そして、大人たちの汚れきった顔を写す鏡であるかのように、大人に負けず劣らず、生きるためには手段を選ばず、時に冷酷な一面も見せる双子。全てが事実なのだとしたら、あまりに世界は残酷だと思わざるをえず、読者の多くは日記に記された人々の業の深さに胸を痛めるだろう。
日記のルールは、事実の忠実な描写、その再現性の精度を高めるために双子が自らに課したものである。皮肉なことに、このルールは、「事実」とは言葉で完璧に再現できないことを暗に意味してしまっている。また、双子は感情や主観をできるだけ排して、「あるがままの事実」を日記帳にとどめようとするが、どれだけ禁欲的にルールを守ろうとしても、時折、母を思い出しては感情がこぼれ出てしまう。だからといって、日記にしたためられた言葉が事実のなりそこないに見えず、むしろルールを徹底できないことが日記に切実さとリアリティを与えているところに『悪童日記』の凄みがある。
揺れる主体――彼らは一体誰なのか?
では、サファリ・Pはこの仕掛けをどのように舞台化してみせたのだろうか。会場となったロームシアター京都のノースホールはブラックボックス型の空間だが、装置類は置かず、ほぼ裸舞台の状態にステージとなる平台が組まれているだけである。その平台は5つに分解できるようになっていて、組み合わせ方を変えるとステージの形状が変化するようになっている。空間は墨汁のように漆黒にそまっているのに、張り詰めた空気と無機質さゆえに色を感じさせない。闇――まるで戦時下、多くの人間が陥った闇をあらわしているかのようだ。
5人いる出演者の身なりもまた、モノトーンである。双子を演じる達矢(サファリ・P)と森裕子(Monochrome Circus)以外の3人は、「おばあちゃん」、教会の神父や女中、「兎っ子」と呼ばれる隣家の娘などの複数の役を演じわけていく。上演は達矢が観客の前に現れ、挨拶をするところから始まる。次いで辻本佳が登場すると、達矢を指して「彼は、男性です」「彼は、筋肉質な体をしています」といったように彼の性別や身体的特徴などを説明する。こうした説明は、物語の途中、途中で差し挟まれる。例えば、おばあちゃんを演じた佐々木ヤス子(サファリ・P)について、達矢と森が次のように説明する。
達矢「彼女は、女性です」
森「彼女は、色が白い」
達矢「彼女は・・・取り立てて特徴のない体型をしている」
森「彼女は、泣きぼくろがある」
達矢「彼女は黒ずんだ灰色のブラウスを着ていて」
森「黒ずんだ灰色のスカートを履いている」
達矢「頭に黒い三角の布を被り」
森「兵隊用の古い靴を履いている」
達矢「彼女は決して裸にならない」
森「夜寝る時、スカートを一枚脱いだけれど」
達矢「その下にもう一枚スカートを履いていた」
森「ブラウスを一枚脱いだけれど」
達矢「その下にもう一枚ブラウスを着ていた」
森「脱いでも脱いでも同じブラウス」
達矢「脱いでも脱いでも同じスカート」
森「彼女は、おばあちゃんです」
当初、役をまとって登場した出演者について改めて説明されると、当然ながら観客はその身体的特徴や服装などに注目することになる。佐々木は昔話に出てくる年老いた魔女のように腰を曲げ、低いガラガラ声を出しておばあちゃんを演じていたが、説明を受けてまじまじとその身体を見てみると、「おばあちゃん」と呼ばれるには若すぎるように思えてくる。演じ手への信頼に揺らぎが生じてきたところで、「彼女は、おばあちゃんです」との断言で説明はしめられる。結局、この説明における「彼女」とは演じ手の佐々木のことを指していたのか?それとも「おばあちゃん」のことだったのか?また、こうも言えるだろう。彼女とは佐々木でもなければ、おばあちゃんでもない。このように観客の目の前にあるひとつの形象=身体と、それを説明するテクストとを結ぶ主語=彼女は一対一の関係にはない。
では、観客は一体何を見ているのだろうか?もうひとつ、説明の場面を取り上げてみたい。兎っ子と女中、そして双子の母を演じた芦谷康介(サファリ・P)を囲んで、辻本と佐々木は次のように説明する。
辻本「彼は、男性です」
佐々木「彼は髪の毛が短いです」
辻本「彼は鼻筋が通っています」
佐々木「彼は痩せ型です」
辻本「彼はなで肩です」
佐々木「彼は、若い女です」
ここまでの場面で芦谷は筋肉質の身体を隠すことなく、一方でわざとらしく女っぽい声色やしなをつくって女たちを演じていた。そのため、観客は最後の「彼は、若い女です」における「彼」と「若い女」の間にギャップを感じざるを得ない。このギャップこそ演出が強調しようとしているところで、日記のルールはこのようにして舞台化されているのではないだろうか。双子は事実を忠実に描写しようとする。だが、事実それ自体は読者には確かめようがない。読者は『悪童日記』に綴られた日記とともに、日記の書き手である双子が事実を言葉に置き換えていく様を見守っている。そんな感覚をこうした演出が引き起こし、観客に双子が見た光景を想像せよと訴えかける。
観客を共犯者に変える力
そうして観客は舞台を介して戦場の光景を想像する。兵士たちのあとに従って家畜のように牽かれていく人々の場面では、出演者たちはうなだれ、気力なく両碗をだらりと下げて足を引きずるようにしてゆっくりと歩く。単純な動作を機械的に繰り返す身体が平台の上をはっているだけなのに、その光景に触発されて、ロダンの『地獄の門』や、丸木位里と俊の『原爆の図』が閃く。そして、原爆が投下された直後の広島と長崎、住民を巻き込んだ激しい地上戦となった沖縄戦、パレスチナ・ガザ地区で続く戦闘とそこに暮らす人々の約45%は14歳以下の子どもだということ・・・凄惨な光景が次々と数珠繋ぎに浮かび上がる。舞台はいたってシンプルで、飾り立てたところは一切ないというのに。むしろそのことで舞台は観客を揺さぶる喚起力を増し、観客を想像/創造の共犯者に変える。
戦争を題材にした作品には実際の戦地のむごさをどうやっても再現できないことへのもどかしさがつきまとう。『悪童日記』の双子にとって、日記とは自分たちが目撃した戦時下の人々の姿を言葉でいかに再現できるかを試みるキャンバスだったのではないか。そして日記のルールを書き入れたのは、「実際のむごさは言葉ではあらわしきれない」というもどかしさのあらわれであろう。ただ、それでも書かざるをえなかった。サファリ・Pの舞台はその切実さに寄り添おうとするもので、もどかしさを何か代わりになるもので埋めようとするのではない、潔いまでの清貧さにこころをうたれた。
なお、本作は12月19日〜21日かけて東京・すみだパークシアター倉で上演予定である。上演会場の変化とともに舞台の表情がどのように変わるのか、未見の方はもちろんのこと、すでにご覧になった方にもぜひ劇場に足を運んでいただきたい。